哲学Ⅲ

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アカデミック
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「わたしとは何か」を考える:デカルトとウィトゲンシュタインの見解から

「わたしとは何か?」この問いは、単なる性格や生物学的な側面だけでは解決できない、深い哲学的なテーマです。今回は、デカルトやウィトゲンシュタインの考えを参考にしながら、自分の意見を述べてみたいと思います。

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デカルトの「我思う、ゆえに我あり」

哲学における「わたし」というのは、自己紹介や客観的な評価から導き出されるものではありません。それは、現代の肉体に関する情報に過ぎないからです。デカルトは「我思う、ゆえに我あり」という有名な言葉を残しました。この言葉には、考えること自体が自分の存在を証明するという強い意味が込められています。私もこの考えには賛同しており、哲学初心者としてもこの見解には異論を唱えられません。だからこそ、私は存在しているのです。

夢と現実の関係

次に、夢と現実について考えてみましょう。生物学的には、眠っている状態が本来の姿だと言われています。古代の生物は、現代のように活発に動くことはなく、反射的な行動で生きていました。これを考えると、眠りが生物の自然な状態であり、目覚めていることこそが異常だという見方もできます。つまり、夢の中が本当の現実で、私たちが現実だと思っているこの世界が夢である可能性もあるのです。

肉体と魂の健康

哲学的には、肉体の欲望と魂の健康は別物とされています。もし肉体の欲望に流されることで魂が不健康になるなら、肉体が存在しない夢の世界こそが本当の世界ではないかと考えます。この物質世界は、目に見えない微細な粒子が集まってできています。そう考えると、微細な世界こそが真実の世界であり、夢の中で魂が見たイデアの世界なのかもしれません。

夢と記憶の関係

「わたしとは何か」についての私の見解は、夢の中に住んでいて、現実の世界が実は夢であるというものです。でも、ここで一つ疑問が浮かびます。デカルトの「我思う、ゆえに我あり」という言葉に対して、夢の中で考えるのは難しいのではないかということです。
私の考えはこうです。夢から現実に戻るとき、その記憶はしばしば忘れられてしまいます。人は生まれるときに前世の記憶を失いますが、時々それを覚えている人もいます。同じように、夢から戻るときも記憶を忘れることが多いのです。これは、夢の世界と現実の世界を行き来することには代償があるからだと思います。その代償が記憶の喪失です。
もちろん、夢を覚えていることもあります。それは、誕生するよりも夢から戻る方が簡単だからです。この考えは少し突飛で哲学的ではないかもしれませんが、「わたしとは何か」を考えた私の率直な意見です。

最後に

この記事を通じて、デカルトやウィトゲンシュタインの考えを参考にしながら、皆さんも「わたしとは何か」について考えるきっかけになれば嬉しいです。哲学の深い部分を探ることは、私たちの存在意義をより理解する手助けになるでしょう。

用語

・ルネ・デカルト
1596年3月31日~1650年2月11日
フランスで生まれた哲学者にして数学者。合理主義哲学の祖であり、近世哲学の祖。

・ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン
1889年4月26日~1951年4月29日
オーストリアのウィーン出身の哲学者。
イギリスのケンブリッジ大学教授になり、イギリス国籍を取得。
言語哲学、分析哲学、科学哲学に強い影響を与えた。

 

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